僕らは嵐のなかで生まれた2
君たちは世界の新しい王様

●お待たせしました。『君たちは世界の新しい王様』(僕らは世界の新しい王様2)がようやく発売になりました。その書き出しのシーンを、お読みください!●

10月30日、東京書籍から発売!

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 一九七二年、十一月。
 大学入試に失敗した川口謙一郎は、家を出て西船橋のアパートに住み、地下鉄東西線で高田馬場の予備校に通っていた。  一九七〇年代は、次から次へと友達が増えつづける時代だった。まったく知らない相手でも、地下鉄のホームで隣りどうしになるとそのまま友達になってしまったりする。誰かが小脇に挟んでいるレコードが謙一郎の目に止まり、つい話しかけてしまったりするのだ。そのまま予備校には行かずに、渋谷のロック喫茶に出かけたりした。
 新しい時代が、すでに始まっているのだった。高校の頃、阿部昌太が言っていたように、革命的に新しい時代がはじまっており、ところが謙一郎自身は反革命的に古い受験勉強なんてものをやらなければならない。まったくのところ、納得がいかなかった。その昌太は落第していたから年は謙一郎よりひとつ上だったが、今は京都大学に通っている。追い込みの馬力がきくタイプなのか頭がいいのか、それとも単にラッキーだったのか、いずれにしても要領のいい男だと謙一郎は思う。
 そんなある日のことだ。
 俺は嵐のなかで生まれた……と、ミックが歌う声が聞こえていた。床に寝ころがった川口謙一郎は、昨夜飲んだサントリー・レッドのせいで吐き気をもよおしながら、それを聴いていた。
 下から尻を突き上げてくるようなスケベェなベース・ライン。そういや、この<ジャンピン・ジャック・フラッシュ>のイントロでミックが“ONE TWO !”とかけ声をかけるところは、何度聴いても“WANT YOU ! ”にしか聞こえないな、と謙一郎は思う。
 それにしても、頭の全体がしめつけられるように痛む。規則的に胃が縮み上がり、吐いてしまいそうだ。

 俺は二人の裸足の、 レズビアンの魔女に育てられた、とミックは歌う。イカしてるな、俺もそうだったらよかったのに……でも、このままだとほんとにカーペットの上に吐いてしまう。  そして、コーラス部分だ。ジャンピン・ジャック・フラッシュ、実際そいつは最高だ、とミックとキースがハモっている。このコーラス部分が「飛び跳ねるチンポコが射精する、まったくそいつは最高だ」という意味なのだと教わったことがあった。
 ステレオの前にすわっていた誰かが立ち上がり、歩いていく気配があった。くそっ、先にトイレにいかれちまう。またもや胃が痙攣し、謙一郎は起き上がる。こうなったら、洗面台でもどこでもいいや、と思う。
 だがそいつは、トイレへいったわけではなかった。玄関のドアが開き、靴をはく音がした。そして、ドアが閉る音。よかっと思った瞬間、喉の奥から込み上げてくるものがある。謙一郎は立ち上がり、見覚えがあるような、ないような部屋で、トイレを探す。そこいらに転がっている男達をまたぎ、ノックもせずにドアを開けると、便器のなかへいきなり吐いた。苦しくて、涙がにじんだ。そいつを拭う間もなく、次の波がやってきて、謙一郎はまた吐いた。最後にはもう吐く物など何もないのに、胃袋は裏返ってしまいそうな勢いでまた痙攣するのだ。
 おれはこのまま内臓を吐き出して、裏返しになっちまうんじゃないか? そのリアルな感覚に、謙一郎はふと思い出す。酔ったついでに、昨夜公園の脇を歩きながら、LSDを塗ったハート型のシールをみんなで四分の一ずつやったのだった。それぐらいにしておいてよかった。一枚まるごと飲んでいたら、こんなものじゃすまなかったろう。四分の一でも、ぐにゃーっと曲がった樹木の梢が、月にからまりついているよう見えたものだった。足元を、無数のリス達が駆け抜けていくのが見えた。
 トイレから出ると、洗面台で顔を洗った。鏡には、ぼさぼさの髪の、目が充血した男の顔が映っていた。掛けてあったタオルが清潔だったので、悪いかなとは思ったのだが、洗った顔を拭かせてもらう。
 リヴィングに戻ると、やはりそこは見慣れないマンションの一室だ。ただ、転がって鼾をかいているのは、どいつもこいつもよく知っている連中である。高校時代勉強もせずに遊びほうけ、そろって大学入試に失敗した、双葉高校時代の仲間達だった。
 そういや、昨夜はこいつらと高田馬場で飲んだのだ、と思い出す。二軒、三軒とハシゴし、そろって持ち合わせの金もなくなり、するといっしょにロックンロール研究会をやっていた及川晴彦が、ただで飲めるところがあるんだ、と言い出したのだった。
 ステレオからは、<レッツ・スペンド・ザ・ナイト・トゥゲザー>が流れている。冗談じゃねえや、もう朝じゃねえか、おまけに二日酔いだし、と謙一郎はため息をつく。
 その時、おっ、と気がついた。ストーンズじゃねえか、と。この部屋の主は誰だか知らないが、どうやらローリング・ストーンズのファンらしい。ワット・ア・プレズント・カンパニーだ!
 みんなを起こしてやろうか、と思う。
 ソファに寝そべった及川を揺すぶろうとし、だがその時謙一郎は、カーテンのすき間からこぼれ入る太陽の光が、ソファに立て掛けられた八角形のアルバムジャケットの下半分を照らしているのを見た。今かかっている《スルー・ザ・パスト、ダークリィ》、暗い過去を通りすぎて、というストーンズのベストアルバムだ。そいつは、死んだブライアン・ジョーンズに捧げられたアルバムだった。
 ブライアンか、と思う。高校時代にあった、いろいろなことを思い出した。まだ、そんなに昔のことではないはずだ。
 だが、すべてが遠い。
 謙一郎はジャケットを手に取り、両手で広げてみる。どこかのストリートに、ストーンズのメンバーが足を中心に花びらのように寝そべった写真が印刷してある。他のメンバーは目を閉じている。だがブライアンだけは愛らしい目を開けてこちらを向き、微笑んでいるのだ。
 そして、もう何度も読んだので暗記してしまった文字が右上に刷り込んである。

 BRIAN JONES(1943-1969)
 When this you see,remember me and bear me in your mind
Let all the world say what they may,speak of me as you find
(こいつを見る時、僕を思い出してほしい。そして、心の中でこのアルバムを分かち合い、僕を支えてくれるとうれしい。人がなんと言おうとかまわない。君が見た通りの僕 なのさ。)

 ブライアンが逝ったのと同じ年に、謙一郎の初めての恋人も亡くなった。恵美という子だった。ジャンピン・ジャック・フラッシュの意味を教えてくれたのも彼女で、二人で下品な大人になろうぜと約束したのに、彼女はヒマラヤ杉が見える病室で、タクシーの運転種をやっている父親に見守られながらひっそり息をひきとった。
 あれから、三年の時間が経過した。
 今では、謙一郎にとっては、ブライアンは恵美で、恵美はブライアンなのだった。
 ふと気がつくとレコードのA面が終わり、溝がこすれる規則的な音がしている。そいつはまるで、機械仕掛けの天使になった恵美が呼吸する音のようだ。
 心臓の鼓動に合わせて痛む頭のなかを、いろいろなものがもの凄い速さで通りすぎていく。その場にすわりこみ、謙一郎はスピーカーに立てかけてあったアコースティック・ギターを手にした。弦に挟んであったティアドロップ型の白いピックをつまむと、音を鳴らしてみる。どうせ安物なのだろうが、弦も真新しく手入れが行き届いており、わりといい音がした。
 気分が滅入ったので、威勢のいいのを弾こうと思い、<ブラウン・シュガー>のイントロのリフを弾いた。1番の歌詞を、小さな声で歌ってみる。
 その時、いきなり背後から掠れた声が聞こえてきた。
「それ、どうやって弾くんだ?」
 ギターを弾く手を止めて振り返ると、色の白い、肩にかかった長い髪の男が、封を切っていないマルボロを片手に謙一郎の手もとを覗きこんでいた。ペイズリー柄のTシャツに、ベルボトムのジーンズをはいている。


●あとがき●

 この小説の舞台は、一九七二年である。この年、田中角栄首相が誕生して日中の国交が正常化し、札幌で日本初の冬期五輪が開催され、沖縄が本土に復帰した。テルアビフでは日本赤軍の乱射事件があり、連合赤軍の浅間山荘事件もあった。ぼくらにとっては、ローリング・ストーンズの来日が発表され、チケットが売り出された年でもある。
 「君達は世界の新しい王様」は、独立した物語としても読めるように書いたつもりだ。だが、『僕らは嵐のなかで生まれた』というシリーズの、第二部である。第一部の「初めての別れ」を刊行してからずいぶん時間が経ってしまったが、一度まかれた種子はずっとぼくの頭のなかにあった
 第三部も、書くつもりでいる。それぞれの登場人物達がどうなっていくのか皆目見当もつかないが、彼らが動き出したら、ぼくはそれを書き記してういこうと思う。
 第一部の時と同じように、今回も東京書籍の小島岳彦氏のお世話になった。ありがとうございました。
 手紙やハガキ、あるいはEメールで「嵐の二部はどうなったんだ?」と励ましとお叱りの声を届けてくださった皆さんにも、この場を借りてお礼を申し上げたい。  それにしても、彼らは一体、どこまで行くつもりなのだろうか?

  一九九七年 秋                                    



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